昭和51年06月07日 朝の御理解



 御理解 第16節
 「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」

 金光大神の道、金光大神が教えて下さるというのは、人間のいわば運命をも変える事が出来ると言う事だと思うんです。もう無い寿命の人が命の接ぎ穂を頂く。もう運命は留まっておる人がそこから新たな運命の展開がある。そこに金光大神の信心はあるのだと言う事であります。本当に私は思うのに。そういう運命が転換する程しの信心を頂きたいと思います。お取り次ぎを頂いて、まぁ色々成程昨日も胃癌でおかげを受けた方達が、全快のおかげを頂いて来た方達が二人共、何人ものお導きを続いてしてみえられた。
 自分は胃癌と言う事を分からないで、おかげを頂いておる人ですから、まぁ言葉にはあのう申します、あの名前は言われませんけれども、一人は市川さんですね杷木の。しかもそれがそのう続いてからお参りになった。本当にその自分がお取り次ぎを頂いて、お願いをして奇跡的におかげを頂き、助かったと言う事がそのまま人へ話なり、それを人に伝えていく。いうならば示現活動ができる訳である。
 私は今日思うのは、ただそういう意味でのただ無い命を助かったと言う事もです、そりゃ無情の風がいうなら、無情の風に時を嫌わせられておる一つの手本ですけれども、私は根本的な助かりと言う事ですよね、今日言うならば本当の意味においての運命の切り替えと、体が健康になったというだけではなくて、健康を頂いたその命がいよいよ、幸せ中の道を歩かせて頂けれるような意味においての、運命の転換。それを思うです。金光大神の道はそういうおかげを頂けれる道。
 もう肺病で助からなかった。もう医者は難しいと言うたので当時の椛目の話を聞いてお参りをしてきた。おかげで助かった、ところがその助かった息子が、まぁそりゃもうわりわりするごと元気になって、村の不良仲間と牛泥棒をした。新聞まで出た。お母さんが出て来て、本当に親先生あの時にご無理を言わずに、助けてもらわん方がよかったと言われました。だからそういう例えば無い命を助けて頂いてもです、その後においてです、牛泥棒でもするごつなったんじゃいかんでしょうが。
 その事を通して本当の意味においての運命の、いうならばここ二、三日申しておりますように、人間から神様への転位転換。我が心が神に向かうのを信心というのじゃとおうせられるように、そう言う事を境にいよいよ自分の心が、神に向かうて行く在り方にならせて頂く。そこからです、金光大神の道は無常のおかげを、いうならば良い運命の転換が出来て行く。一生いうならば神様としての取り扱いを神様から頂けて来る様な、神様の仲間に入らせて頂けれるような。
 いうならば安心のおかげを、喜びにひたった信心生活が、出来る様になると言う事がです、私はこの世での運命を本当に切り替えのおかげを頂いて、あの世までもの地獄に行かなければいけないはずの人が、極楽に移って行けれる程しの運命、だからあの世この世をとおしてのおかげの頂けれる金光大神の道。いわゆる無情の風に時を嫌わして、そして地獄行きの筈が極楽行きになると言う程しの、おかげを頂いて行くと言うところに、信心の観点というものがおかれなければです。
 ただ医者が助け切らなかったのを、金光様のおかげで助かったというだけでは、私は本当の事じゃないと思う。本当の神様のお喜びにはならないと思う。私は神様に喜んで頂く様な助かりじゃなからにゃいかんと思うです。助けてやったけれどもそれが却って世の患いになる様な、お互いの助かり方ではでけん。神様に喜んで頂く様な助かり方を頂きたい。そういう意味において金光大神の道というのは、無情の風に時を嫌わす程しのおかげが、この世だけではないあの世までも築ける様な、おかげを頂きたいというのです。
 昨日、日曜でしたから特別奉修員の方達の、御祈念の後に頂きました御理解。まぁいつも二十名あまりの方達が熱心な日参りをなさる。しかも私の事を思うて下さり、教会のことを思うて下さる人達が集うて、親先生の健康の事を願われる。または合楽教会大発展の御神願がご成就に相成りますようにという、願いをかけられる方達ばっかりなんです。私は一番にこういうことを皆さんに申しました。もし皆さんがもう二十年若かったら、三十年若かったら、いや私がまだ二十代であったら。
 皆さんが恐らくここにおられる皆さんは、みんな学院行きを望まれる方達ばっかりだったろうと言う事です。どの人の顔を見てもそんなハイそうですと言う様な顔をしてましたよ。本当に私共が本当に例えば原さんなら原さんが、今七十としますかね、ならまだ五十年若かったらおそらく、娘の知恵子どころじゃなか、自分が先に学院に行っておられる方だろうと思います。秋山さんが自分の息子をどうぞ、お道の教師にでもお取り立て頂きたいという願いをもっておられます。
 息子どころじゃない、それこそもう何十年若かったら、自分が率先して学院に行く事を願われただろう、というほどしの方達ばっかりなんだ。私はその事を思うて神様にそのお礼を申させて頂きよりましたら、『神々のラッシュ』と言う事を頂いた。ラッシュという事はどう言う事かと言う事を私聞かせて頂いたら、行き通うと言う事。あのラッシュ時のラッシュなんですね。御心眼に朝の御祈念の雰囲気でもう沢山の御信者さん方がこうやって通うておる様子を頂いて。
 あぁ昨日のご理解の中に、本当に人間から神様になる、いわば心掛けでなからにゃいけん。信心とは本心の玉を磨くものだと。信心とはもう日々の、日々の改まりを心掛ける事なんだ。お道の信心の眼目は、生神金光大神天地金乃神一心に願え、いわゆる今月今日ただ今を、私の心の中に和らいだ心、喜びの心を与えて下さいと。昨日桜井先生の奥さんがお参りしておられましたが、お声で円い心、清い心と頂かれたそうです。
 だから日々をです、「自分の心の中に、円満な心を頂かせて下さい、今日もまた清まらせて下さい」と祈り願いながら桜井先生、本当に泣こごたるのと言うて話した事でした。願っておる、生神を目指しておる。けれども本当に丸い、今日一日であったであろうか、清らかな今日一日であったであろうか。清まったと思うたら、もう汚しておる、本当に泣こうごとあるけれども、やはりそれを繰り返し繰り返し、続けて行くと言う事、その事が信心なのだと。
 その事が信心なのだと分かって、一分一厘づつでもそれに向かって進んで行くと言う事は、もう既に神の世界に一歩足を踏み入れたのと同じなんです。信心とはおかげを受ける事、御利益を頂く事、悲しい時の神頼み、それがいわば日本人の信仰の観念になっておるような感じが致しますけれども、金光様のご信心はそういうものではない。和賀心が神に向かうのを信心というのであり、私その事を思わせて頂きしてみると合楽ではです、随分明神様やら権現様がござるなと思いました。
 その現れとしてです、例えば最近私が実感する事は、日参組の方達は毎日毎日がもう有り難うして、有り難うしてという、お礼のお届けが続いておる事です。これは日参をされる方達はもう本当そうです。もう昨日はもう親先生こんなおかげを頂きまして、こんなにも神様の間違いのない働きの中にこうこうでしたと、もうその事をお届けされる方達ばっかりです。
 昨日、吉井の波田野さんがお届けしておられましたが、先生この頃もうここ二、三日お取り次ぎを頂いて、お願いをしてお礼を申し上げてお礼を申し上げても、何か親先生が知らん顔をしてござるような感じがする。一つも交流を感じない、もう何と悲しい事であろうかと思う。昨日も帰らせて頂いて御神前に行ってその事を思わせて頂いて、思わせていただいとったら、自分がいうならば何十年のお日参りをしとるけれども、子供やら嫁達にでもその信心を、与えきれない位な自分だから。
 もう親先生からも、いうならばそういう風な見方をされておるのじゃなかろうか、と言う様な意味の事を感じられながら、はぁそうだ一人信心せよと仰せられるのだから、本気で一人信心させてもろうてもっともっと有り難くなろうと思うて、今日は参らせて頂きまして。お取り次ぎがここにあっとったから、御理解の方を先に聞かせて頂いたら、「一人信心せよ」という御理解であった。はぁ今日から通うと思うたち。
 ここにみえてからほんなこつあなたが言うたように、あなたといっちょん通わなかったけれど、今日から通うごたる感じがするねと言うて話した事でした。もう既に私の中にある、いうならばまぁ神性というかと波田野さんの神性とが、通わなければ交流にならない。油と水では交流しない。人間と神様では言うなら交流しない。そこで人間が神を目指すという生き方になってくる時に、神と交流するのである。
 これはもう本当にですね、まぁここ二十年も朝参りを続けておられる方達の場合、はもう皆んなと言うて良い程もう毎日毎日、神様の一分一厘間違いのない、そりゃ良い事悪い事ありますよ。けれども間違いのないおかげの出し方がある。素晴らしいです。 昨日私は桜井先生のお届けの後に話した事でしたけれども、昨日バスの停留所である事をちょっと思わせて頂いた。その思うたとたんに前のお店の電気がバチッと音をたてて割れた。私はおいさみかと思うた。
 「はぁ神様あいすいません。自分は神様のお心にかなわん事を思いや、もう神様はこの様にしてお気づけを下さる」。前のお店さんに対してあいすまんと言う様な思いで、御祈念させて頂いたと言う様に、もう良い事悪い事、もう神様がここにござる、神様が物言うてござる事をいつも聞きつづけに見つづけに見ておる方達が、もう神様の仲間入りをしとるのです。高橋さん達がここまで通うてみえられる間に、例えば前を走っとる自動車のナンバーを見て、はっとその自分の心に反省をされる様な事が何時もあられる。
 例えば行っておるゴーストップのそれに直面して、自分の心を正していかれると、言った様な人達が沢山ある。いうならば自然のリズムを聞きとって、リズムに乗った生き方をしておる人は、もう人間の生き方じゃないです、神様の生き方です。私はこの神様と言う事はね、金光大神が言われる神様というのは、あのうそれこそ白髪をこう流して、雲か霞みを食べておるとそういう神様じゃないです。神道でいう神様とは違うです。キリスト教でいう神とは違うです。
 それこそ教祖が言われる神というのは、ここに神が生まれると言う事であってと、仰せられます。我が心に神が生まれると言う事。本当に神様と親戚付き合いが出来ておる様な感じがする。神の声をそこに例えば子供の、子守歌の中からでも神の声を聞かせて貰えると言う様な、信心に進んでおられる方達は、もう神の仲間入りが出来ておるのです。桜井先生に申しました。私がまだ修行中の時分に、私の話を聞いてただこれはそうですね、どんなに難儀困迫しておってもです。
 心の中のおかげを頂いておる話というものは人を助ける。先ず私がおかげ頂いて次の人が助かれるというのじゃないです。自分の心に本当に有り難いものが頂けておれば、その有り難いもので人がどんどん助かっていくです。ある教会の御信心を長くしておられた。信心をすればするほど難儀な事になっていって、もう久留米の方でしたが、久留米から当時の椛目まで歩いてくるのに、バス賃がないから歩いて参ってきなさった、子供をひっかろうて歩いて参ってきよった。
 その方が始めて、当時の椛目のお広前にお引き寄せを頂いた時にです、因幡の白うさぎのお知らせを頂いた。白うさぎが鮫達の仲間と数読みをして、人数の多い比べをしようというのである。なんの自分がおる島に飽いてきた。だからその向こうに見える島に移りたいのだけれども、うさぎは行く事が出来ん。一計をめぐらして鮫達にそういう風に言うて、鮫はこの島から向こうの島まで、ずらぁっと並んだその上を一匹二匹と数えて、向こうの島へ移った。
 移ったのはよかったけれども、もう移る間際におまえ達は馬鹿だねと、俺はこの島に来たかったんだと言うた。でその一番最後の鮫がその白うさぎをつかまえて、あのう皮をはいでしもうたというのである。その白うさぎが丸裸にされて、泣いておる様子のところを兄様達の一行に遅れられた、大黒様が大きな袋をかついで通り掛られた。話を聞いてそれは大変可愛そうな事だと。それではいけない。先に通られた神様達が、塩の水で体を洗えと言われたから洗うたらかえって痛む。そこで大黒様は言わっしゃった。
 真清水で洗えと。そして蒲の穂をひいてその上に休めと。そりゃもういわば真清水で体を洗うていわばしみる痛さもなくなった。蒲の穂を言わばひいて寝たら、また自分の体に毛がはえたように暖かになってきたというお話しです。その信者さんはもう本当にもう、それこそ上げるものを上げ尽くしてしもうた、丸裸になった。椛目まで通うて来るのに、電車賃がない、バス賃がないと言うところまで、言うなら落ちぶれはてて、もうこれではならんと当時の椛目の御ひれいを聞いて、参って昨日が始めてであった。
 その時に頂いて御理解がそれであったと。いうならばまぁだ私には言うならその時分から私の事を、大黒様と言う様になったんですよね。まだ打ち出の小槌も持たなければ、お米をしくあのう米俵もなかった。ただ大きな荷物をかついで、兄様達の後をいわばお供しておるという程度の、大黒様であったけれども、心の中に燃えておる信心の喜びというものは、親切な心というものは、真心というものは、人を助けずにはおかんという念に燃えておられる、大黒様の姿を私のその当時の姿として頂いた。
 それでその事をね、私は桜井先生に改めて話すんですよ。もうあぁた方は神様ですよって。けれどもまだ今修行の真っ最中という神様ですよ。私は今日の御祈念でその事を思うた。昨日例えば二十名のいわば、特別奉修員の方達にあんた方一人一人がです、もし何十年若かったら私は恐らく娘、息子と言う事はいらん、自分が率先して学院にでも行って、お道の教師にでもなって、難儀な人を取り次ぎ助けて、言わばおれないような信心の熱意を持っておるのだけれども、私はそれを信ずる。
 あんた方そうだろ、皆んながそうですという顔をして聞いておられました。だからもうあなた達は言うならば、神様の仲間入りが出来ておる人達ばっかりなんだ。自分の事も願うけれども、とにかく人の助かり、いうなら合楽示現活動に参画させて貰うて、人が助かって行く事の楽しみ喜びと言う様なものを、身に付けて行くんだ。けれども言わばここに並んでおられる、言うなら二十数名の神様達は、まだ修行が残っておる、いうなら桜井先生じゃないけれども、まだ修行中の神様達ばっかりだと言う訳であります。
 そこでですそういう神様、例えば朝の御祈念にさぁ合楽、合楽へとお参りをしてみえる。それはみんな神々のラッシュの状況ではなかろうかと思うです。朝の御祈念の一時というものは。皆さんだからその自覚に立たなければいけんです。もう我は神様の中にかてて頂いておる私と言う事。だからその神格をいよいよ教祖様の御信心でも、下葉の氏子とか、神門柏手とかお許しになられる、神格が段々金子明神とか、金光大権現とかと言う様な風に、御神格を進めになっておいでられたようにです。
 皆さんのいわば神格というものを一つ確信をもって、それが次の神格へ進んで行くところの手立てをしなければならんのに、堂々回りをしておる神様達ばかり。まぁだ苦労しつづけておる修行中の、神様達ばかりであると言う事は、どう言う事であろうかと私思うたです、今日。そしたら神様からね、御心眼に『ちょぼひげたてとるところ』を頂いたです。次にはね「ご飯ば食べ過ぎて腹ばこうこうしよるところ」ば頂いたです。
 お互いがいうならばです、信心とはもう本心の玉を研くもの、日々の改まりが第一、もう焦点は天地書附におく以外にはないんだ、様々な問題を通してそれを研く材料、様々な事柄を通して改まりの資にしていこうという、そこのところの言わば事が思い込めておる人は、もう神の世界に入ってる。そういう人達がです、何故いつまでも下積みの神様でおらなければならないかと言う事はね、ちょぼひげをはやしておるからだ、食べ過ぎておるからだと言う事です。人間というのはね、本当に弱い。
 そりゃ体が悪いかなんかでね、もうご飯を食べきらんという人はない別ですよ。けれども普通健康であるならばです、もう二杯と決めとったってもう一杯くれといおうごとある。自分の好きなものがそこにあると、もう間食はせんち決めとったっちゃついそれに手がでる。それが人間の弱さです。その弱さにねその弱さに打ち勝って行く所の迫力がないからだという意味なんです。自分の弱さに人間の弱さに打ち勝って行く所の克己心がないからだと。ちょぼひげというのは、私はひげたてとるとが一番すかん。
 だから合楽では一人もひげたてとる人はおらんです。ひげたてとると髭ば私が落としてこんのち言う。何か知らんけど髭たてとるというと、ちょっと威張ろうと言う様な気があるからですよ。私はもうふるふるすかん。昔の先生方のこう髭が生えた人がおるでしょうが。【 】ちょぼひげがはえとると私はどうも虫がすかん。何かこう俺は人よりも偉いんだぞと誇示しとるような感じがするです。ちょぼ髭というのは、ちょっぴり言うならば自慢げのあるから人だと言う事です。
 いうならば慢心は大怪我の元と仰るが、そういうちょぼ髭が段々大きなひげになって、小さい自慢が慢心になる様な事になっては、沢山のおかげを頂いた時に、また元にかやしてしまわなければならないからです。だからちょぼ髭を落としてこい、人間の弱さに打ち勝つだけの信心修行をさせて貰えと言う事。そこん所が出来んから、いわば合楽で神々様と言われる様な人達が、堂々回りをしておるのはそう言う事なんだというのです。仏法の世界では、今の時代こそが末法の世界だと宣伝しておられます。
 もう救いようがない助かりようがないと言う程しの事。その事を私昨日御祈念中に思わせて頂きましたら、公害と言う事を頂いたです。これはもう具体的にですね、今の公害というのはもうあのう確かにもう人間が滅びなければならない様になるです、今の状態であったら成程末法の世界是だけでも。なら人間一人一人の考え方と言った様な中にもです、神様所かそれこそ人間の面しとるだけで、人間獣心と言う様な人間が沢山多くなって来た事です。我さえ良ければ良いと言う様な、自己心の人が多くなって来た事です。人を殺してからでも国を取ろうと言う様な、根性がいよいよ盛んになって来たからです。
 自分で自分の首をしめるような、生き方の人達が多くなって来たからです。そういう中にあって助かる手立てというのは、お題目の連唱と創価学会でいうところの、南無妙法蓮華経をそれこそ繰り返しそれを唱える事。そして折伏をしていく事、お導きをしていくと言う事。これ以外に助かる手立てはないと言っておると言う事を秋永先生が聞いてきて。そういう意味において、合楽の信心の素晴らしさを、また改めて再認識が出来たと言うております。
 合楽示現活動に参画すると言う事はそれです。大祓信行に徹底すると言う事はそれです。そこでお互いが先ず神様の仲間入りをさせて頂いてです、思い込みの日々の改まりが、研く事が和賀心を目指すと言う事が、信心なりとひとつ心の中に頂きこんで、そしていよいよ合楽示現活動に、参画させてもらわなければならない。いよいよ迫力を持ってです示現活動に参画させて貰い、いよいよ生き生きとした心をもって日々です、大祓信行に本気で取り組ませて頂かなければなりません。
 人一人助ければ一人の神と言われます。そういう意味じゃ高芝さん当りのごと、沢山のお導きが出来た人はもう沢山の人の神なんです。だからその神様のおかげを頂いておりながらです、ちょぼ髭をはやしておる食べ過ぎておる、だからおかげがどう胴回りになるのです。自分の心から慢心気というものを、自慢げというものを先ず取り去らなければならない。同時に生神金光大神を唱えさせてもろうて、自分の心の中に生き生きとした喜びが湧いてくるとです、慢心どころではない自慢気どころではない。
 これは有り難くその修行に取り組む事が出来る。人間が自分の好きなものが前に出て来ると、もう手がガタガタ震えるごとある。それを押さえる力は生き生きとした信心の喜び以外にないと私は思う。そこを通り抜けてです、頂いておられる神格が一段と輝かしいものになってこなければならない。そしていよいよ生き残れる人々に、お互いがならしてもらわなければならない。いよいよ示現活動にいよいよ、大祓信行の徹底を期していかなければならんと言う事になります。
   どうぞ。